自分の土俵
最近、山岳雑誌で自分の技術的スタイルを書き
「男の隠れ家」では私の一推し装備を書かせて
もらった。また雑誌「RUN&TRAIL」では今年
中国でのトレランレースで起きた大量遭難につ
いて避けられた事故と自分の考えを書かせて頂
いた。
お仕事をいただき感謝しているのだが、いろい
ろな考えを意見として発信できることは私にと
って幸せなことなのだろうか?
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4月山梨県警での山岳遭難救助の留意点を講堂
で話したとき、自然界における日本人登山者の
意識を自分なりに喋っていたのだが途中でこん
な事を言っていて本当に良いのだろうか?
これで何が解決できるというのか?
と 疑問に思ってしまった。
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何故だが分からないが夏目漱石の言葉に
「智に働けば角が立つ、情に棹させば流され
る、意地を通せば窮屈だ、兎角に人の世は住
みにくい」の一節が頭をよぎる。
私は常々ソロクライミングに於いては人に教わ
ろう思った段階でアウトといっている。
ソロは誰にも頼れないから、、 また
カブスのダルビッシュはバッターのいない所で
投球練習しても意味がないといっていた。
要はそこに打つ気満々なバッターがいて初めて
練習になると、
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落語家も笑わせてやろうといくら練習しても
上手くいかないことが多いのだそうだ。
話すのが好きで浮世話が自然に出てくるよう
で無ければ本当に面白い小話は出来ないのだ
と、
枝雀の落語は枕詞がそれはそれは面白い、こ
っちが期待しているから余計に感じてしまう
のか聞き入っているといつ終わって本題に入
ったのか分からないうちに落語に引き込まれ
ていく。
まさしく持って生まれた話芸で、練習したか
らできるものではないと思う。
初めのころ彼は、昭和36年米朝の弟子になり
10代目桂小米を名乗っていた。
私はそれこそ中学生の時に親父に連れられて
類を見ないこの人の話芸に触れ鳥肌が立ち、
大学に入ったら落研(おちけん)に入りたい
と思ったほどだ。
師匠である米朝の奥さん曰く「要領も良かった
けど落語を本当に好きで好きでたまらないとい
う弟子は、後にも先にも小米しかいない」と
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モノの本質や価値は根本的には同じだとしても
人それぞれの感じ方次第だ。例えばオーガニッ
クの高級な食材と高価なワインを大勢の評論家
や専門家と呼ばれるが見て最高ランクを評価し
たとしても、自分にとって価値があるか無いか
はその人次第ということになる。
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お笑いだって、クライミング技術だって、価値
があるかどうかを決めるのは相手方次第なのだ。
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いくら自分が正しいと思われることをいってい
ると思っても、相手に伝わらなければ、相手に
興味を持たせることが出来なければ、それは所
詮、他所らことで自己満足に過ぎないのだろう。
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1999年2代目桂枝雀は謎の死をとげる、、
秋でもないに ついつい考え込んでしまう。