お父さんは偉かった!
昭和30年代中頃、テレビのお値段は
平均で6〜7万円ぐらいしていたそうだ。
今の価値に直すと100万円ぐらいの
値段ということになる。
電化製品で100万円ですよ・・・
下に付いているチャンネルが、回しているうちに
よく取れてしまう。それを親父はいとも簡単に
すぐに直してくれた。
近所の人達が各家で食事が終わると
一人二人と集まってきてプロレス中継が
始まる時間となる。
私は小さい頃、コロコロとしていたので
近所の人達に「力ちゃん」と呼ばれていた
そんな事もあって、力道山が出て来ると皆が
ほらっ 「力ちゃん 力道山が出てるよ」
今でもハッキリと覚えています。
ルーテーズやジンキニスキー、カールゴッチ
そして何より元祖悪役、ザ・デストロイヤー
彼らを空手チョップでやっつける力道山の姿は
まさしく 国民的英雄でした。
何故こんな事をふと思ったのかというと
実は毎週金曜 FM高崎の番組「エアープレイス」
の午後4時10分から約20分間、「フライ・ミー
トゥー・ザ・ムーン」のメロディにのせて
「健ニィのよもやま話」をさせて頂いています。
この「ココアスタジオ」は駅ビルモントレーの
中にあり、私は10年以上前になりますが、この
駅ビルモントレーで果物屋をやっていました。
そして、ここは私の生まれた場所で幼少の頃
過ごした場所でもあるのです。
今日生放送の後、ぶらり散歩をしてみました。
すると
時計をその場で修理してくれる「箕輪時計店」
駄菓子や「おけや」、「豊田屋」「魚勢」・・
まだまだ みんな健在で商売をしていました。
あっ、この家が駅前では一番早くテレビを買って
みんなでプロレスを見に行ったんだ。この路地で
38度線(南北朝鮮)というゲームをやったんだ。
この原っぱで野球も・鬼ごっこも・ペコポンも
今でも鮮明に蘇ってきます。
今高崎は北関東一の都会になっていますが
もう懐かしくて つい書いてしまいました。
力道山、木村政彦*シャープ兄弟
レフェリーは沖織名さんでした。
電気屋さんの前は人垣が出来
テレビのある食堂は満員電車状態で
食事が出来ないため、食券をもらって
後日食べに行くというシステムをとっていました。
あの頃の人々は純朴だったと言うか
相手方の反則に対して、テレビに向かって
真剣に「きたねーぞ!」とか怒鳴っていましたね!
リモコンが無かったので、長い棒の先に細工をして
炬燵から出ないで、チャンネルを回す工夫をしていました。
投稿: 岡崎 恭男 | 2010/12/19 17:39