と書いてあった商品が実は
類似品だった話はよくある。
また「世の中には悪い業者がたくさん
いますからね」と言っていた訪問販売
を実際に相手をしたことがあった。
その人は「気をつけてくださいね」
とだけ言ってその日は去っていった。
何日かして又やってきて盛んに表札の
文字が良くないので「悪いことは言わない
あなたの為だから変えた方がよい」と
値段を聞いたら確か5000円だった。
そのうち こんどは
無料で運勢を見てくれると言って
手相を見てくれた。
「あなた病気をしましたね」
今考えると病気をしない人なんかいない
「最近 忘れ物が多いでしょう
注意が散漫なのは心配事が多いからです」
これも忘れ物が多いなんて誰にでも当てはまる
「実はこれ印鑑によるところが多いのです」
といって 印鑑とハンコの違い・・
全ては印鑑から・・ などと
もっともらしい話を優しくしてくれた
そして・・
「印鑑を変えると運勢が開く」とのせられ
ついに実印と認め印ともう一つ3個ついて
****円で買ってしまった。
20年以上前の話だがその印鑑を見る度に
思い出してしまう。
今は同じような物がその半額ぐらいで
巷で売っている。
スキー技術も ガイド技術も
これも考え方一つなのだろうか?
写真は関係ありません
投稿時刻 01:58 ひとりごと | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
釣りはいい
ゆったりとした時間という
大切なものを与えてくれる
先日地方のラジオ局
ラジオ高崎の人達や
シネマテーク高崎の人達と
飲む機会があった。
余計なお世話かもしれないが
どちらも苦しい財政の中
一生懸命頑張っている。
もう10年近く前になるが定期的に
「リーブルリーブル」という
ラジオ番組のゲストとして
お邪魔していたことがあった。
山の紹介をしたり、
私に似合わず花の話をしたり、
キノコや山菜の食べ方まで
好き放題しゃべらせていただいた。
あるクールでは高崎の職人さんを
紹介したこともあった。
花火を作っている煙火師
和ごまを作っている拳玉師
芸術的な組子を作っている建具師
もう四代続いているお麩屋さん
まだまだある。
そういった職人さんに会って話を
していると、ある共通点に気がついた。
取材に行って月並に一番つまらない
この仕事が好きですかなどと聞くと
「てめえ べらぼうめ きれえで
こんなしごとやってられるかってんだ」
気持ちはこもっていても実際はこんな
言い方はされていません。
時には景気の良い答えが返ってくる
のだが、ほとんどは
う〜ん、まあ〜 とか
今は〜 あまり などと
あまり景気は良さそうではなかった。
しかし、そんな景気のことは関係なく
取材をみんな本当に快く迎えてくれた。
嬉しそうな顔で、「そうかい 君の
本職は山に登ることかい」
「山に登っておもしろいかい」
なんて、逆取材を受けたことがあった。
明治初期から変わらない麩だよとか
キラキラした目で話してくれる。
そしていつもいっぱい
お土産をいただいた。
つい最近まで、このキラキラは
何だろうとずっと思ってた。
そう実は 恥ずかしながら少し
分かったような気がした。
その仕事が好きか嫌いかなんて
そう簡単に言える事じゃない
ただはっきりと言えるのは
間違いなく職人といわれる人達は
仕事を大切にしているのだ。
先代に学ばなくては・・
投稿時刻 22:41 ひとりごと | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
投稿時刻 19:06 ひとりごと | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
皆さんもご存じのように
シャモニー谷ツール生まれの
名ガイド、ミシェル・クロは
マッターホルン初登頂の際に
常にリードをしウィンパーを助け
成功したのですが、下山するとき
他のロープで繋がれていた三名と共に
崖から転落して亡くなったのです。
その時、生き残ったウィンパーら3名も
同じロープに繋がっていたのですが
ロープが途中で切れ、助かったのです。
当時、何故もっと強いロープを持って
いたのにもかかわらず、その時最も弱い
ロープを使っていたのか?
何故そこでロープが切れたのか?
スイス政府はウィンパー達三人を
予審裁判にかけた。無罪にはなったが
その後しばらく「切れたザイル」
として疑惑を持たれていました。
ツェルマット山岳博物館では今でも
そのザイルを見ることが出来ます。
そして、この報道でツェルマットは
マッターホルンの町として
一躍有名になったのです。
実は来年のカレンダーにマッターホルン
があって「切れたザイル」の事をふと
思い浮かべ話をすると、結構知らない人が
いたので書いてみました。
投稿時刻 12:28 ひとりごと | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
イタリア生まれのカレルは
あまりにも独立心が強く
その勝利を他人と分かつことなく
祖国に捧げたい意向だった。
マッターホルンを初登頂した
エドワードウィンパーはこう言って
今まで一緒に試登していたカレルを諦め
やむなくマッターホルンの頂上まで
リードしてくれる別の男を探しにかかった。
ミシェル・クロはシャモニー谷の上流
ル・トゥールあたりで生まれた。
「雪がしっかりしてさえいればどこでも歩けます。
氷であればルートを切り開くことが出来ます。
単に(ガイドの)力だけの問題です。
その力は私にありますので
あなたはついて来さえすればいいのです」
ミシェル・クロがエドワード・ウィンパーに
あったときこう言ったそうです。
またウィンパーも彼に何度かガイドをしてもらい
こう書いてます。
「彼を催促したり、同じ頼みを二度することがなかった
何をどうすればいいか指示をしておけば
不可能なことではない限り、必ずやってくれた」
その非凡な登山能力と氷雪に対して比類のない知識は
ガイドとしてこの上ないものだった。
続く
投稿時刻 01:43 ひとりごと | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)